色川について

色川地区の概要

和歌山県那智勝浦町

和歌山県南東部に位置し、熊野灘に臨む那智勝浦町は、面積183.45平方キロ、人口13,891人(7,474世帯、令和5年4月1日現在)で、古くから熊野信仰の中心として栄え、豊かな温泉と世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を有する観光と漁業の町である。

山間部に広がる色川地区

那智勝浦町の北西部の内陸に位置する色川地区は、千年の歴史を有し、平家の落人伝説が残る。かつては色川郷18カ村として色川氏が所領していたが、その後、紀州藩新宮領地の統治下となり、明治22年(1889年)、明治政府の町村制実施の改正により、10カ村をもって色川村となった。昭和30年(1955年)に近隣3町村との合併により那智勝浦町となり、昭和35年(1960年)に、さらに2町村が編入して現在の那智勝浦町となった。 現在の色川地区は、面積76.23平方キロ(町面積の41%、林野率98.70%)、人口320人(183世帯、令和5年4月1日現在)、海抜800メートルの山々が連なり、標高200~400メートルの急峻な山肌に9つの集落で形成されている。年平均気温は17℃、年平均降雨量は3,000ミリの高温多雨地域で、この立地条件を生かして「色川茶」を生産しているほか、有機農業や林業が主な産業である。

かつて人口は3,000人あった

昭和25年(1950年)ごろは約3,000人の人口があり、農林業・鉱業で活気に満ち溢れていたが、昭和37年(1962年)ごろから農林業の衰退、鉱山の閉鎖、住民の減少・高齢化等により、休耕田の増加や山林の荒廃に悩まされる過疎地になった。住民は茶業や新たな農林産物の生産、環境問題や過疎問題の研究に取り組み、色川を活性化させようと奮闘してきたが、急速に過疎化が進む中で「このままでは、地域社会の崩壊、むらの消滅につながりかねない」との危機感が深まっていた。

昭和52年に始まった移住者の受入

地域の危機感が深まる中、有機農業を志す5家族が移住を希望してきたことから、住民有志が2年にわたりその家族らと話し合いを重ね、昭和52年(1977年)に移住が実現した。当時、保守的な農村社会において“ヨソ者”の移住は考えられないことであり、新規定住の実現は、地元住民の計り知れない苦労と努力の賜物といえる。

現在に繋がる受入体制の構築

平成3年(1991年)には人口が600人を下回り、より強力に地域の活性化を図る必要があるとして、色川地区区長連合会が「色川地域振興推進委員会」(以下、委員会)を設立した。移住者の受け入れについても、地域を窓口として対応をしていくため、委員会内に「定住促進班」を設け、組織的な受入体制の構築を図った。