あなたは色川に何を求めていますか?

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都会の暮らしは便利だけど近所付き合いがなかったり、人間関係や地域のつながりが希薄だったりということもあると思います。一方、田舎では地域と人、人と人とのつながりが濃密です。不便なことや困ったことがあっても、お互いが助け合い、補っています。住民一人一人が地域を支える大切な存在です。自然、地域、人としっかりとつながった田舎での暮らしは、都会では得られない心の豊かさに満たされます。 |
Hさん(1995年・東京から移住)
東京で板金業を営んでいたご主人は、アウトドアが趣味だったので、将来は田舎暮らしか、別荘暮らしをと考え、各地を訪ねていた。色川地域を選んだ理由は、[1]気候が温暖で自然環境に恵まれている。[2]現代医療に不信感を持っていて、無医村に近い状態だった。[3]死ぬ時を考え、どうせ死ぬなら霊的なものを感じる場所がいいと思い、そうした場所であった。[4]昔から山のきのこに興味があり、南方熊楠がきのこ採取に歩いた土地だったことであり、近くに生活利便施設がなく、不便であることはまったく気にしなかった。
Sさん(
独身女性)(1998年・神奈川から移住)
ここにくるまでに家庭菜園程度の経験はありましたが、本格的な農業経験は初めてなんです。作目、有機農法など農業に対する情報量が増えたと思っています。一シーズンも過ごしていない現時点で、農業を糧にするといったような将来は描けませんが、自分が食べる範囲程度のものは作りたいと考えています。

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色川は紀伊半島の南東斜面に位置するため雨量が非常に多く、また山村地域であるため、もともと農業に適した場所ではありません。しかし、色川のご先祖様は田んぼにできるところは全部田んぼにしながら天に到るまで耕しました。現在、杉檜の林の中に見え隠れする石垣はかつての田んぼの石垣の跡です。息を切らして山に登ると、よくもまあこんなところにまで田んぼを作ったなと思われるほどです。最盛期には色川全体が田んぼでつながっていて村全体が明るかったとのことですが、それは壮観な棚田だったのでしょう。いまでは谷あいの川筋、居住区域の周辺に残っているだけになりました。 今から40年ほど前から新規定住者を受け入れてきましたが、その時の定住者が有機無農薬の農業を志向していたため、現在では色川野菜といえばイコール有機無農薬野菜と認識されているほどです。山村の農地ですから狭い段々畑で大規模な農業には向きません。少量多品種の栽培が適しているといえるでしょう。米や野菜の販売は地元市町のスーパーや個人宅配ですが、高齢化と人口減でたくさん売れる市場とはいえません。 ある程度の生活費を稼ぐ手段としては鶏卵がよいのですが、これも飽和状態に近くなっています。今後はインターネットなどを通じた都会への販売が考えられますが、宅配料金が高く、相当な付加価値をつける必要があります。 林業は、那智勝浦町森林組合を始めいくつかの林業業者がありますが、林業不振のため雇用は少ないです。 |
Sさん(1993年・静岡から移住)
大学卒業後、有機農業に関心を持ち、6ヶ月の農業実習を受けたが、当時は、自己資金もなく、農業で生計を立てていけるかどうか自信もなかったので、単なる実習で終わった。その後、農業関係の出版社に勤めていたが、有機農業への思いを捨てきれず色川地域に移住した。移住の決め手は、[1]自然環境に恵まれている、[2]少ない自己資金で家や畑を購入できる、[3]農業実習を受けたときの仲間がいる、[4]中山間地の不便さがよい。
Hさん(1981年・大阪から移住)
学校を出て2年ほど造園の仕事をしていたが、初めから農業志望だった。生まれは明石なので、その周辺で探していた。当時(昭和56年頃)、都会人が農民になるのは不可能な時代だった。それで26歳で実習にやってきた。実習生といっても結局は手伝い。どうしても自分でやりたくなる。半年で独立、定住を決めた。最初は田んぼ20アール、畑10アールだった。すぐに現金収入がほしかったので葉菜を中心にした。畑は現在30アールに増えている。すべて、無農薬、無化学肥料で栽培している。それと、20年前から採卵養鶏が柱になっている。500羽飼っている。

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色川には、アレルギーや喘息などの病気で苦しんでいたり、いじめや不登校などで都会の学校になじめなかったり、自然の中でのびのび子育てしたいなどという教育方針をお持ちであったりさまざまな理由で子育てをされている方々が生活しています。病気やアレルギー症状はこの地の水や空気、有機農法で育った米や野菜の食事をしたり、都会に比べてストレスの少ない環境の中で症状が軽くなっていくようです。 |
Tさん(1988年・大阪から移住)
大阪生まれだが淀川水系の水道水が極めてまずく、能勢町の湧き水を週1回汲みに行く生活をしていた。そうした中から、食べ物、農薬、食品添加物問題などに夫婦ともに関心を持つようになり情報を集めた。いつかは自分で作りたいと思うようになった。信州などを含めて田舎で農業ができる場所を検討しているなかで色川を知り、見学に来た。現地で「ふつうの」人たちが楽しそうに農業をしているのを見て直感的にこの地の魅力を感じ、帰宅して即決した。当時4歳の長女が病気がちで、田舎での医療のことなど不安はあったが、ここで生活をしてみると空気のよさ、山坂が多く体が鍛えられたことなどから娘の体調も回復した。
Jさん(1993年・大阪から移住)
色川地域を移住先に選んだ理由は、もともと田舎暮らしが夢であり、自然環境に恵まれていることが気に入り、奥さんは、自然環境豊かなところで子供を育てたいというのが最大の理由だった。ご夫婦ともに大阪市出身で、出身地との距離感も選定理由のひとつ。中途半端な田舎暮らしではなく、とことん田舎暮らしをしようと、生活利便性については特に考えなかったそうだが、当初は積極的だった奥さんは、最近では買い物の不便さに多少不満を言うようになったとのこと。
Oさん(1996年・東京から移住)
東京で満員電車に揺られ通勤する生活がイヤになって、都会生活への疑問を感じるようになってきた。このままではすれ違いばかりで、子どもたちと一緒に遊ぶこともできないと、田舎暮らしを検討し始めました。会社を辞めてから、全国の田舎を回る計画だったのですが、一番先に来た色川が気に入ってしまった。それからはトントン拍子に。妻の「やってみれば…」の一言にも後押しされました。こどもたちの食が細かったのに、よく食べるようになり、元気に遊んでくれるのがうれしい。

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昨今「団塊の世代が田舎暮らし」をとマスコミで取り上げられるようになりました。当地色川も新聞、雑誌、テレビ等でよく取り上げられるせいか団塊の世代の方の照会が増えてきております。また、実際60歳代で新規定住された方もおられます。 おそらく定住の動機は老後を自然環境の豊かなところでのんびり暮らしたいということでしょうが、ここは都会や近隣の市町からも離れた非常に不便なところです。地元のお年寄りも子供さんと同居でもなければ、70歳を過ぎられれば町や子供さんの住む地へ出て行かれる土地柄です。色川生活の厳しい現実を念頭に十分検討し、現地を何回も訪問するなどしてから決断をおすすめします。(安易に田舎暮らしを指向し、定住してもすぐに都会へ戻られる方が日本中で増えています。) |